
第1章:小さな接触
満員ではないが、それなりに人の多い電車の中。会社帰りの田中圭介は、いつものように吊革を探して座席の前に立った。
しかし、たまたま目の前の席が空いたこともあり、ためらいながらも腰を下ろすことができた。
座るなり、ふうっと深く息を吐く。今日も仕事で疲れ果てたな。
外の景色は闇に包まれ、窓に映るのは自分の疲れ切った顔。そんなとき、ふと隣の人の存在を意識した。
視線を横に向けると、そこにいたのは驚くほど美しい女性だった。
彼女は静かに目を閉じ、長いまつ毛を微かに震わせながら、穏やかな寝息を立てている。肩まで伸びた黒髪がふんわりと揺れ、横顔のラインはまるで彫刻のように整っている。その姿はまるで映画のワンシーンのようだった。
——いやいや、何を考えてるんだ俺は。
そんなことを考えながら、もう一度視線を正面に戻す。
ところが、その瞬間——
彼女の頭が、ゆっくりとこちらの肩に寄りかかってきた。
圭介の心臓が跳ねる。
(えっ……!?)
距離感のない、柔らかい温もりが肩に触れる。女性の髪からは、かすかにシャンプーの香りが漂い、妙に落ち着かない。彼女は完全に眠りに落ちているようだった。
このまま、そっとしておくべきか。いや、でも他人同士でこんなに密着するのはさすがにまずいのでは?
圭介は、迷った。
第2章:避けるべきか、受け入れるべきか
電車の揺れに合わせ、彼女の頭が少し動いている。そのたびに、圭介の肩にかかる重みも変化する。その変化に緊張した彼は、肩をすくめたり、微妙に体勢を変えたりしていた。
(このままにしておいて、変な人だと思われたらどうするんだ?)
そっと肩をずらして距離を取るのが正解なのか? しかし、それで彼女が目を覚まして気まずい雰囲気になるのも嫌だ。第一、電車の揺れでまた寄りかかられてしまう可能性だってある。
いや、そもそも彼女は疲れているんだ。少しぐらいそのままにしておいてもいいのでは? そう思った瞬間、またもや彼の心が揺れる。
(いやいや、勝手に肩を貸しているような状況はどうなんだ? まるで自分が意図的に受け入れているみたいじゃないか。)
——どうする?
そっと避けるべきか? そのまま受け入れるか?でも、動いて彼女を起こしたら、いかにも「嫌がってます」と言わんばかりの行動で気が引ける。
やはり、そのままにしておくべきなのか? しかし、それはそれで、目が覚めて「この男、なぜ避けなかったの?」と、不審者扱いされる可能性もある。
——どっちが正解なんだ?
俺はスマホを眺めるふりをしながら、周囲をさりげなく観察した。
正面の席に座る中年男性は新聞を広げている。向かいの女子高生はイヤホンをしてスマホをいじっている。すぐそばに立っているサラリーマン風の男も、疲れた顔でつり革にぶら下がっている。
……誰も俺たちを気にしていない。
なら、このままでもいいのではないか? そう思いかけた瞬間、電車が急に揺れた。
「んっ……」
彼女の頭が俺の肩から滑り落ち、俺の腕に寄りかかる形になった。さっきより密着度が増している。やばい。
反射的に肩を動かしかける。しかし、ここで避けたら、彼女はバランスを崩して転んでしまうかもしれない。それはそれで申し訳ないし、彼女自身が恥ずかしい思いをするかもしれない。
そうこう考えているうちに、彼女は深く息をついた。
「んん……」
微かに動く気配。俺の肩の感触が変わる。もしかして起きるのか?
——いや…
彼女は、わずかに頭を持ち上げると、そっと俺の肩に乗り直し、また寝てしまった。
——ええっ…
彼女の呼吸はすぐに静かになった。
俺の心臓は、なぜかさっきよりも早くなっている。なぜこんなに緊張しているんだ俺は。
落ち着け。冷静になれ。
でも、冷静になったところで状況が変わるわけではない。
——どうすれば…
このまま放っておくのは、優しさか、それとも単なる無関心か? 逆に、避けるのは思いやりか、それとも冷たさか?
結局、いつかは決断しなければいけない時が来るのだ。
(ふふふふ…)
突然、笑いが込み上げる。
俺は、自分でも笑えてくるくらい、どうでもいいことを必死に考えている。
けれど、人間なんてそんなものだ。たった一つの小さな選択で、心は大きく揺れるのだ。
***
第3章:もうわからない
それでも、電車は黙々とレールの上を滑り続けていた。
——さて、どうすればよいのだろう?
そこそこ混んでいる車内。隣の女性は、今も俺の肩に頭を預けたまま、静かに眠っている。
そして、電車が揺れるたびに、彼女の髪の毛がかすかに頬に触れた。
一刻も早く、決断すべきなのでは?
けれど、不自然に動けば、きっと起こしてしまう。いや、むしろ起こしたほうがいいのか?
迷いながらも、再び、周囲をチラリと眺める。
すると、今度は、向かい席の年配の男性が、こちらに目をやっていた。
——やっぱり、、、そりゃ目立つもんな。
もしかして、妙な目で見られてる?
「ラッキーだったね」なんて、羨ましがられてるならまだマシだ。でも逆に、「あの男、何もせずに女の子を寄りかからせて、図々しくないか?」なんて思われていたらどうする?
そんなふうに思うと、急に落ち着かなくなってしまった。
不意に、彼女の吐息が頬に触れる。
——ぅわぁっ…
よし、もう避けよう! っっでも、今さら動くのは逆に不自然じゃないか?
あー、もうわからない。
——というか、ここまで悩む必要があるのか?
電車の中で人が眠ることなんて、珍しくもない。ただ、隣にいたのが俺だっただけの話。
そう自分に言い聞かせながらも、心はパニックに陥っていく。
その瞬間、車両の奥から、小さな子供の泣き声が聞こえてきた。
お母さんらしき女性が必死になだめているが、子供はなかなか泣き止まない。
その大きな声が耳に入ったのだろう、隣の女性がわずかに眉をひそめた。
——ついに、起きるのか?
んん?いや、どっちだ?
でも、さっきより表情が苦しそうだ。
……もしかして、この体勢がつらいのでは?
——早く決断しなくては…
いや、そもそも寄りかかってきたのは彼女のほうだし、俺のせいじゃない。
それなのに、軽い罪悪感が湧いてくるのはなぜなんだ。
もし俺がいなかったら、彼女はこんなふうに中途半端に傾くこともなかったかもしれない。
次の駅に近づくアナウンスが流れる。
俺は、最後まで迷いながら、それでも——
ごく自然な動きで、席を立った。
その瞬間、彼女の頭は支えを失い、はっとしたように目を開ける。
「……?」
寝ぼけた様子であたりを見回し、やがて自分の状況を察したのか、少し顔を赤らめた。
俺は何も言わず、吊革を掴む。
やがて電車が次の駅に停まり、ドアが開くと、彼女は軽く会釈をして、足早に降りていった。
俺は、その背中をぼんやりと見送る。
たった数分間の出来事。けれど、俺にとっては、やけに長く感じた永遠の時間だった。
——まあ、こんなこともあるか…。
人生は、ほんの些細なことで迷い、葛藤し、時には結局、何もしないまま過ぎていく。
でも、それが悪いわけじゃない。
人は、そんなふうにして生きている。
おしまい。😊

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