序章：気づいてしまった瞬間
オフィスの午後は、静かな緊張感に包まれていた。
キーボードの音と電話の着信音がリズムよく響き、誰もが自分の仕事に集中している。
そんな中、佐々木優（ささき まさる）は隣の席に座る上司、田島課長（たじま かちょう）をちらりと見た。
田島課長は、この会社で十年以上のキャリアを持つベテラン営業マンだ。頭の回転が速く、交渉の場では冷静沈着。
しかし、部下には気さくで親しみやすい人物としても知られていた。
佐々木も彼を心から尊敬しており、いつか自分も田島課長のようになりたいと願っていた。
そんな田島課長が、今まさに重要なプレゼン資料をチェックしている。
背筋はピンと伸び、視線は真剣そのもの。その姿に佐々木は改めて感心した……が、同時に“あるもの”に気づいてしまった。
チャックが開いている。
それも、ほんの少しではなく、堂々と。
一瞬、佐々木は目を疑った。いや、見間違いではない。紺色のスーツの下、白いワイシャツがちらりと覗いている。
（……マジか）
心の中で動揺しながらも、佐々木は咄嗟に視線をそらした。
だが、意識すればするほど、気になってしまう。こんな大事な仕事の最中に、まさかのチャック全開。
伝えるべきか、否か——佐々木の中で小さな戦いが始まった。
第一章：伝えるべきか、伝えざるべきか
「田島課長、今度のクライアントとの打ち合わせですが……」
隣の席の後輩、小林（こばやし）が話しかける。佐々木はその様子を横目で見た。
田島課長は、チャック全開のまま、堂々と資料をめくっている。真面目な顔で、的確な指示を飛ばす姿はいつも通りだ。だが、佐々木にはもう、それどころではない。
（このままではマズい……）
もし誰かに気づかれたら、田島課長のカリスマ性が……！
そう考えると、何とかして伝えるべきだと思う。しかし、どう伝えればいい？
「課長、チャック開いてますよ」
——いや、ストレートすぎる。
「課長、お手洗い行かれました？」
——変に思われるかもしれない。
「課長、服装チェックとかどうですか？」
——それとなく言ったつもりが、逆に怪しまれるかも。
佐々木は一人、悶々と悩み続けた。しかも、気がつけば会議の時間が迫っている。
田島課長は、このままプレゼン会場に向かうつもりだ。
（どうする、どうする俺……！）
佐々木はついに意を決した。
第二章：勇気の一言
「課長、すみません！」
意を決して声をかける。
田島課長が顔を上げる。「ん？ どうした？」
「えっと……その……」
だが、いざとなると言葉が詰まってしまう。課長の鋭い視線が、余計にプレッシャーをかけてくる。
「なにか問題でもあったか？」
（言うんだ、優！ 今言わなければ、課長はあの状態のまま会場に行ってしまうぞ！）
佐々木は思い切って口を開いた。
「課長、ちょっとお手洗いに行かれませんか？」
「え？」
田島課長は怪訝そうに眉をひそめた。
「その……身だしなみの確認をしておいたほうがいいのかも..とか思いまして…」
課長はしばらく考え込むように佐々木を見つめ、それから「……そうか」と呟いた。
「確かに、プレゼンの前だしな、チェックしておくのはも悪くないよな。ありがとう、佐々木」
そう言って、課長は立ち上がり、お手洗いへ向かった。
（よし……！ これで気づいてくれるはずだ……！）
佐々木はほっと胸をなでおろした。
第三章：まさかの展開
それから数十分後、会場では熱いプレゼンか始まっていた。
「….いやいや….どうして気が付かないんだ。やはりストレートに言うべきだったのではないだろうか……？」
佐々木は、自分の心の中で静かに問いかける。
上司である田島課長は、今も変わらず堂々とプレゼンを続けていた。その姿は、まるで全てを掌握しているかのような自信に満ち満ちている。
部下たちは課長の話に真剣に耳を傾け、クライアントもうなずきながらメモを取っている。
だが——それでも——課長のチャックは大胆に開いたままだった。
佐々木の視線は、何度もそこに引き寄せられそうになる。しかし、見てはいけないと思えば思うほど、意識はそちらへ向かってしまう。
「大丈夫、誰も気づいていない……はず」
そう自分に言い聞かせるが、心の中には別の声も響いていた。
「見て見ぬふりをすることは、本当に相手のためになるのか？」
彼はふと、大学時代に読んだ倫理学の本の一節を思い出した。
「沈黙はときに、最も大きな裏切りである」
これは哲学者サルトルの言葉だった。
何かを知っていながら、行動を起こさないことは、時に積極的に人を傷つけることと同じだと。
「でも、これはそんな大げさな話じゃない。ただのチャックの問題だ……」
そう思い直そうとするが、彼の中に芽生えた葛藤はもはや消えそうになかった。
—言うべきか、言わざるべきか。—
彼の中の天秤は、いまだに揺れていた。
第4章：焦燥の決断
会議が終わり、拍手が湧き起こる。田島課長のプレゼンは成功に終わったようだった。
クライアントも満足そうに微笑み、何人かは握手を求めに来ている。
「いやぁ、課長の話は本当に説得力がありますね！」
「さすがです、あの切り口は思いつきませんでした！」
部下たちも次々に賛辞を送る。課長は誇らしげにうなずきながら、背筋を伸ばし、堂々と応じていた。
……そう、堂々と。
（課長のチャックは開いたままだった。）
佐々木の脳内には、再びカントの道徳哲学が浮かび上がる。
「人間は手段ではなく、目的として扱われるべきである」
もし、自分が課長の立場だったら？
誰も何も言わず、そのままチャックが開いた状態で一日を過ごし、後になって気づいたとしたらどう思うだろう？
——きっと、恥ずかしさに顔を覆いたくなるだろう。
その瞬間、佐々木は決意した。
「課長……」
声が震えそうになるのをこらえ、彼はそっと近づく。そして、できるだけ周囲に聞こえないよう、小さな声で囁いた。
「……チャック、開いてます。」
一瞬の静寂。
課長は、え？ という顔をして、自分のスーツの前を見下ろした。そして——驚愕の表情を浮かべた。
「……っ！！」
課長はすぐさま背を向け、こっそりとチャックを閉じた。その仕草は、いつもの自信満々な課長とは思えないほど小さくぎこちなかった。
佐々木は、目を逸らしながら静かに言った。
「……誰も気づいてなかったと思いますよ。」
課長は、しばらく無言だった。しかし、やがて何かを噛みしめるようにゆっくりとうなずくと、低い声で言った。
「……ありがとう。」
その声には、心からの感謝が滲んでいた。
最終章：小さな勇気、大きな影響
その日の帰り道、佐々木はふと空を見上げた。
夜風が心地よく、満月がビルの隙間から顔を覗かせている。
「……言ってよかったんだよな。」
彼はふと、今日の出来事を振り返る。チャックが開いていることを伝えた。
ただそれだけ。それだけのことだ。でも、その一言を言うまでに、彼は信じられないほどの葛藤を抱えていた。
そして今、彼はそれがどれほど大切なことだったのかを実感していた。
「大きな決断ばかりが人生を変えるわけじゃない。」
小さな気づき、小さな勇気が、人の心を動かすこともある。
そして、田島課長は、帰り際の佐々木にこう言った。
「さっきは本当にありがとうな。お前、意外と度胸あるな。」
その言葉が、なぜか胸に響いた。
佐々木は歩きながら、静かに微笑んだ。
きっと、これからもこんな些細な選択に悩むことはあるだろう。でも、今日の経験が教えてくれた。
「迷ったら、相手の立場になって考えればいい。」
彼は足を止め、コンビニの自動ドアが開く音を聞いた。
「……さて、晩飯はどうしよう？」
レジの向こうに並ぶおにぎりとサンドイッチを眺めながら、彼の心はまた、小さな選択に揺れ始めるのだった。
おしまい。😊
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