
第1章:足りない何か
週末の午後、陽介はキッチンに立っていた。フライパンの上では、じっくり煮込まれたソースが静かに泡を立てている。食欲をそそる香りが部屋中に広がり、彼は満足げに鼻をひくつかせた。
「いい感じだな……」
彼は木べらでソースをすくい、慎重に味見をする。酸味、甘味、コク、すべてがバランスよく絡み合い、ほぼ完璧に近い。しかし――なにかが、足りない。
それは言葉にできない違和感だった。何かが抜け落ちている、だが何が必要なのかがわからない。
「もう少し塩を足すか……いや、それとも砂糖?」
陽介は考え込みながら、スパイスラックを見渡す。塩をほんのひとつまみ加え、再び味見する。しかし、さっきとほとんど変わらない。ならばと、砂糖を少量加えてみる。しかし、今度は甘みが強くなりすぎた気がする。
「違う……違うんだよな」
彼の頭の中では、完成形の理想の味がはっきりと浮かんでいる。しかし、今目の前にあるものは、どうしてもその理想に届かない。
「胡椒か?それともナツメグ?」
スパイスを少しずつ足しては味見し、また足しては味見する。だが、どれも「違う」と感じるばかりで、正解にはたどり着かない。
キッチンの時計が静かに時を刻む中、陽介の焦りは次第に募っていった。
第2章:混ざりすぎた味
「こんなはずじゃなかったのに……」
陽介はため息をつきながら、ソースの色をじっと見つめる。最初は美しい深紅色だったのに、次第に黒みがかかり、複雑な色合いへと変わっていた。それはまるで、絵の具を混ぜすぎて元の色がわからなくなってしまったキャンバスのようだった。
味も同じだった。最初のシンプルな味わいは、次々と足された調味料によって濃厚になりすぎ、もはや元の味を思い出せないほどになっていた。
「……どうすればいいんだ?」
理想の味に近づこうとすればするほど、遠ざかっていく感覚。陽介の脳裏に、小学生の頃の絵の授業の記憶がよみがえる。
当時、彼は空の色を塗るのに夢中だった。青と白を混ぜるうちに、もっと鮮やかにしようと黄色を足し、深みを出そうと紫を加え、気づけば濁ったグレーになっていた。修正しようと絵の具を足し続け、最後には何色を作ろうとしていたのかすら忘れてしまった。
「今の俺は、あの時と同じだ……」
彼は苦笑しながら、スプーンでソースをすくい、もう一度味を確かめる。
「うーん……」
もう「美味しい」かどうかの判断すらつかない。ただ、これは理想の味ではない。それだけははっきりしていた。
第3章:手を止める勇気
陽介は、しばらく考えた後、手を止めた。
「……もう何も足さない方がいいのかもしれない」
料理に限らず、絵でも音楽でも、創作というものは「足していくこと」で完成に近づくとは限らない。時には、「引くこと」が大切な場合もある。
彼は鍋を火から下ろし、一度落ち着いてみることにした。大きく深呼吸し、部屋の窓を開ける。春の柔らかい風がカーテンを揺らし、ふっと気持ちが軽くなる。
「引くんだ」
彼は、もう一度最初のシンプルな味を思い出しながら、味の修正を試みることにした。スプーンでソースをすくい、水を少し加えて味を落ち着かせる。そして、ごく少量のレモン果汁を加えてみる。
――瞬間、ソースに軽やかさが戻った。
「……これだ」
足すのではなく、余計なものを引いていくことで、ようやく求めていた味にたどり着いたのだった。
第3章:原点に戻ろう
「いいぞ…」
確認をする意味で、もう一度スプーンを、そっと口に運ぶ。深みのあるコク、ほどよい酸味、すっきりとした後味。理想のバランスだった。
「完璧だ……!」
陽介は満足げに息を吐いた。ここまで長かった。試行錯誤を重ね、ようやく完成にたどり着いたのだ。
だが――
(……いや、待てよ)
ふと、陽介の中に小さな欲が芽生えた。
「もう少しだけ、コクを出したらどうだろう?」
今のままでも十分に美味しい。だが、あとほんの少しの工夫で、さらに完成度を高められる気がした。
陽介は迷った末に、スパイスをひとつまみ足した。
「これで……どうだ?」
期待を込めてひと口食べる。
――ん?
(もう少しバランスを取ればいいか)
そう考え、別の調味料を加える。すると今度は、深みが増した代わりに、後味が少し重くなった。
「……もうちょっと調整すれば……」
さらに少しずつ加えていく。
そして――
「……ダメだ」
陽介は頭を抱えた。
「やっちまった……」
欲を出してしまった。
「どうして……どうしてあの味を信じられなかったんだ……」
何が正解かわからなくなってしまった。
陽介は深く息をついた。そして、ノートを見返す。
「…わからない。」
皿を前にして、陽介はため息をついた。さっきまで確かに理想の味に近づいていたはずだった。それなのに、気づけば味がぼやけ、最初に思い描いた完成形がわからなくなってしまっていた。
「どうして我慢出来なかったんだ…」
頭の中では、濃く深いコクのある味を目指していた。しかし、あれこれと足していくうちに、いつの間にか方向性が定まらなくなり、どこが正解だったのかすら思い出せない。
「もう、何が足りないのかすら分からない…」
舌に乗せても、味がぼやけて感じられる。最初は醤油が足りないかと思い足し、次に塩気が強くなったから砂糖を加え、酸味が欲しくなってレモンを絞り、結局バランスを取るためにまた何かを入れ…。気がつけば、料理というよりも実験のようになっていた。
途方に暮れながら、陽介は鍋を見つめる。これは失敗なのか? もう一度やり直すべきなのか?
そのとき、ふと祖母の言葉が頭をよぎった。
「料理はね、最後に何かを足すよりも、最初に戻ることが大事なときもあるんだよ。」
祖母の家で一緒に味噌汁を作ったときのことを思い出す。まだ幼かった陽介は、「しょっぱい!」と言って味噌を足そうとした。しかし祖母は首を振って、「じゃあ、お湯を足してみようか」と言ったのだ。
「…そうか。」
陽介は、鍋の横に置かれた小さなボウルに目をやる。そこには、料理を始める前に作った最初のスープの味見用が、ほんの少しだけ残っていた。
原点の味。
陽介は慎重にそのスープを口に含んだ。最初の味が、舌の記憶を呼び戻す。今のスープと比べると、シンプルだけど、迷いがない。
「戻ろう。」
陽介は決意し、鍋にたっぷりと水を足し、弱火でじっくり煮直すことにした。
第4章:再構築のひとさじ
火を弱め、じっくりと味を馴染ませる。鍋から立ち上る湯気は、まるで霧が晴れていくように、陽介の頭の中の混乱を和らげていくようだった。
「焦らずに、一つずつだ。」
深呼吸をして、最初に決めた味を思い出す。濃厚なコク、ほどよい塩味、そしてほのかな甘み。
今度は、むやみに足さずに、一つ一つ慎重に味を調える。出汁の旨みを感じ、ほんの少しだけ塩を加える。そして、最後に決定的な一手を加えることを思い出した。
「仕上げの一滴。」
彼は棚から取り出した小瓶のフタを開け、スプーンに少量を垂らす。それを慎重にスープへ落とすと、ふわりと香りが広がった。
「これだ。」
陽介は静かにスプーンを手に取り、最後のひと口を味わう。
…完璧だった。
最初に求めていた味が、確かにそこにあった。
第5章:爽やかな結末
皿に料理を盛りつけ、テーブルに置く。外を見ると、窓の向こうには夕暮れの柔らかな光が広がっていた。
陽介は、スプーンを手に取り、もう一度ひと口食べる。
「うん、美味しい。」
この瞬間、彼は心の底から満足していた。完成した料理の味がどうこうではなく、「やり直すこと」を恐れずに、自分の感覚を信じたことが何よりも大事だったのだ。
料理は、ただ美味しいものを作るだけじゃない。過程そのものが、時に迷い、時に立ち止まりながらも、自分自身と向き合うことに繋がる。
陽介はスプーンを置き、ふと笑った。
「結局、料理も人生も同じかもしれないな。」
そして、彼はそっとペンを取り、レシピノートの隅にメモを書き込んだ。
「迷ったら、原点に戻る。」
その言葉が、次にこのノートを開く自分にとって、小さなヒントになることを願いながら。
おしまい。😊

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